魔術師と将軍のジレンマ

要約

目標を設定して達成する際に、戦略が必要とされる。
目標までのルートがはっきり見えている時には、順序的な戦略が立てられる。ダンジョンを1階ずつ制覇してゆくようなものである。
目標までのルートがよく見えない時の戦略は、累積的な戦略となる。敵のHPと回復力はわからないが、とにかくダメージを与え続けるといった戦略である。
目標の立て方、順序的な戦略、累積的な戦略の三者に、それぞれ様々なジレンマが存在する。


その上で、完璧な戦略、未来予知はありえないが、わかる範囲で努力し続けることは可能である。
いっぺんに何もかもしようとせず、自分の限界を知りながら、努力しつづけることが大切である。

戦略の迷走とは

AGSにて、蔵原氏が新しい記事を挙げられました。
戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合: Analog Game Studies
タイトルの通り、戦略の迷走について、様々な観点から分析してゆくものです。
敢えて結論を出さず、読者に思考を求める形になっています。
以降は、xenothなりの整理と結論です。

順序戦略と累積戦略

最初に、蔵原氏があげられている「順序戦略」と「累積戦略」について、軽く整理します。
これらは、アメリカ海軍のJ・C・ワイリー提督の『戦略論の原点』による分析です。


まず順序戦略とは、戦略を立てる際の順序がはっきり見えているものです。
たとえばドイツのロシア侵攻です。
ドイツはまず兵站を整え、国境のロシア部隊を奇襲し、戦線を構築しつつ、ロシアの領土に入り、最終的にモスクワ陥落を目指す、という順序があるわけです。
もっと簡単に言うなら、「地下10階のダンジョンを征服する」みたいなものですね。1階から入って、1階ずつ下りてゆくわけです。


一方の累積戦略とは、そうした順序が見えないものです。
よく言われるのがゲリラ戦です。
敵軍とまともに戦って撃退する戦力がない場合に持ち込む心理戦です。
ゲリラ戦をあちこちで散発的に仕掛けることで、相手の戦力を決定的に削ることは無理だけど、いつしか相手の「心が折れて」撤退なり妥協なりすることを目指すわけです。
この時どこまでやったら「心が折れる」のかは、明確にわかるものではないので、「とりあえず色々な種類のゲリラを仕掛けまくる」という戦術になります。
それが「累積」して、効果を現すのを待つ、というわけです。


こちらも簡単に言うなら、「HPも防御力も回復力もわからない敵との戦い」にたとえられるでしょう。もしかしたら攻撃は全て無駄かもしれない。相手の回復力や防御力が大きすぎて、勝てないかもしれない。その上で、そのうち勝てるんじゃないかと信じて、殴り続けるわけです。
で、どういう攻撃が効くかわからないから、通常攻撃やら魔法攻撃やら炎属性やら毒やら取り混ぜて、色々殴り続けて、状況が打開されることを願う、と。


さて、どちらの戦略にも、様々な落とし穴があります。


累積戦略の泥沼っぷりについては、言うまでもないでしょう。
戦場が混沌として、成果が上がってるんだかどうだかさっぱりわからない時に、ひたすらリソースを突っ込んで、「変化」を待つ、というのは大変です。


順序戦略の場合、途中までうまく言ってるからといって、最後までうまくゆくとは限らない、というのがあります。
ドイツはモスクワを陥せないと意味がない。途中までが破竹の連勝でも、スターリングラードで止まったらダメなわけです。
地下10階のダンジョンは、7階までトントン拍子に攻略できても、8階ですごい強敵に遭うかもしれない。
そうした時に、戦略の大幅転換を迫られる。戦略を転換すべきか、あるいはせっかくここまで来たのだから進み続けるか?


順序戦略であっても、各段階は、累積戦略的にしかクリアできない場合があると言うべきかもしれません。


自分と目標の能力値と難易度とリソースが十分に明確に見えているなら、計画通り順番にクリアしてゆけばいいわけですが、現実社会で、そんなことはあんまりない、というか、見えてるなら、そうすりゃいいだけなので(笑)、見えない時が問題になるわけですね。

魔術師のジレンマ

そうした戦略のジレンマの根本に疑問を投げかける例として、蔵原氏は「空の境界」の「荒耶宗蓮」をあげています。
(以下、空の境界およびFate/zeroのネタバレがあります。未読の方はご注意を)
月姫」「Fate」「魔法使いの夜」「空の境界」などに共通する奈須きのこの世界観ですが、「空の境界」は執筆が初期であるためか*1、その世界観のルールが端的に表れています。


奈須きのこの世界観では、「根源」というものが存在します。「根源」の正体は不明ですが、魔術師達の最終目的であり、最大の奥義であり、究極の真理であり、全ての存在の原因、根源などと言われています。


似たような概念として、「起源」というものがあり、この世にある全てのものも人も等しく持つ、本質であるとされています。「根源」から流れ出した時の、方向性が「起源」であるとも考えられます。
多くの人間は、自らの「起源」を把握していませんが、それを把握した時、「起源」に連なる強大な力を発揮しますが、一方で、人格や自由意志といったものが「起源」に呑み込まれてしまいます*2
起源に目覚めたものは起源に縛られるのです。
例えば作中、白純里緒という人物は、「食べる」という起源に目覚め、人を殺して食うことに異常な力を発揮する殺人鬼となります。


荒耶宗蓮は、前述の白純里緒をはじめとする多くの人間の「起源」を目覚めさせ、それによって破滅に追いやりました。
全ては、彼自身の「根源」に辿り着こうとする魔術的実験のためです。


その彼の起源は「静止」。
他者の起源を道具のように使っていた男こそが、己の起源に縛られ、研究によって前へ進み続けたつもりで、実は足踏みをしていたにすぎないと気付くことが、作品の皮肉になっています。
その彼が「静止」の先を求めて、『虚無』の起源を持つ両儀式と道を交えた時、荒耶宗蓮は虚無へと還るのです。

将軍のジレンマ

蔵原氏があげた、もう一つの例が「キラーエンジェルズ」に登場する、南軍(アメリ南北戦争の負けたほう)のリー将軍とロングストリートです。


ここにおいて、リー将軍は、時代の中で、負けを前提とする戦闘を、それでも戦い抜くことを強要されます。
一つには、そのような順序戦略の中に生きているからです。積み上げた慣性が、他の道を許しません。政治的な流れの中で反抗できない。軍隊というシステムの中で任務を拒否できない。背負ってきた大義と命の重さに振り向けない。

魔術師の横顔

さて、なぜ彼らは、報われない道を歩き続けるのか。道を引き返すことはできないのか。
もう少し前に遡って見ましょう。


荒耶宗蓮は、もともと僧でした。そして、人類を救済することを夢見ました。
けれど、どれほど己を鍛えても救済はなお遠く、その糸口すら掴めない有様。
その時に、荒耶宗蓮は「人の死」を記録することを志しました。
様々な人の生き様と、その結果としての死を知り、その全ての死を知ることで、人の「意味」を知ろうとしました。
そのために、あらゆる知識が記録される「根源」へ至ろうとし、そのために、あらゆる形の「死」を自ら作り出し、記録し始めました。


これに関する感想は様々でしょう。xenothなりの感想は後で述べますが、まず言えるのは、荒耶の戦略は、まず目標において議論の余地がある、ということです*3
「根源」を求める、だが、「根源」が手に入らない。ジレンマだ。
で終わるものではない。
なぜ、「根源」を求めたのか。なぜ「人類の救済」を求めたのか。他に方法はなかったのか。
荒耶が考えるべきは、そこだったのではないでしょうか。


これはリー将軍も同じです。荒耶の問題は、荒耶個人の問題でありますが、リー将軍の場合は、もっと広い問題でもあります。
アメリカという国は、なぜ、南北戦争をしなければならなかったのか。南軍と北軍が戦争せなばならない理由は何か。南軍は、北軍はそれほど正義なのか*4 *5
それらは、リー将軍アメリカ国民、そして今に至る我々も考えることです。

世界を救おうとする君へ

「世界を救済しようとした男」の問題は、同一世界観の「Fate」シリーズ、とりわけ「Fate/Zero」(虚淵玄)で、よりはっきりと掘り下げられています。
そこで、主人公の衛宮切嗣は、「全ての争いを無くし、世界に平和をもたらす奇跡」を求めて、全ての願いを叶えるという「聖杯」を求めて、聖杯戦争に身を投じます。


衛宮切嗣は10人の命を救うために、無関係な一人を殺すことを是とする男で、実際に将来の被害を防ぐためにテロリストを人質ごと殺すということを、自己満足や自己の喜びのためにではなく、本心からそれが「世界の平和」と信じ、心の痛みを機械のように制御して、ひたすらに戦い続けてきました。


その彼の求めた聖杯の奇跡こそが、あらゆる形で彼の思いを反映し、故に裏切られるのが作品のクライマックスとなります。
そこで切嗣は、「世界を救う」ということの意味を理解していなかったことを思い知らされます。これは荒耶も同じでしょう。
「世界を救いたい」という使命を覚えつつ、それに向かって努力すると嘯きつつ、本当の意味で「世界を救う」ということを現実として思い描けていなかった*6


切嗣にせよ荒耶にせよ、人を救いたいとする願いは共感できるものです。では、彼らはなぜ、それを間違えたか。


奈須作品で描かれているテーマであり、またxenothもそう思うのですが、彼らは一足飛びに「世界を救おう」としたからなのです。
本来、一つずつ一人ずつ助けなければならないものを、全部いっぺんに救おうとした。
だからこそ破綻するのです。


彼らは救いたい人が多かったのでしょう。自分の手の届く範囲では救える人も救えないと思ったのでしょう。
ただし、彼らは「全部が救えないならそれは無意味だ」と思ってしまった。


そうではない。
一人を救うことは救わないよりは常にいい。救えなかった人の無念を背負うのは構わないが、だからといってそれを「無意味」としてはいけない。


荒耶が、人を救えないなら、せめて死を見つめようとした時、それは一つの道でした。
けれど、「全ての死」を見て、「そこにしか意味がない」と思ったのは過ちです。
人の生き様、死に様には、一つ一つに意味がある。
荒耶はそれを考えることから逃げたのです。


一人の人間は、ただ一人の人間でしかない。
一人の人間は、正義を求めることはできるけど、「正義そのもの」になるのは不可能であり、そのような「概念」になろうとする時、生き物としては死ぬしかありません。
魔術師が根源を求める矛盾も、あるいはそれに近いものでしょう。
人である限り、概念にはなれない。概念となった時、その人は死んでいるし、また概念自体には善悪も何もないのです。

完璧さの誘惑

もう一度、戦略論に戻ってみましょう。

 では結論しよう。いずれにせよ人間は複数の道を選ぶ自由を持っている。

蒼崎橙子の道:「順次戦略」の罠を拒否して、それまで得た大切な何かを棄てる代わりに罠から脱するか。
◇ ロバート・リーの道:「順次戦略」の罠に気づきながらも、何らかの理由によってあえて罠に突き進むか。
◇ あるいは「我々には第三の方法がある」(by スローン大提督)があるのか(*9)。

戦略論で言うなら、切嗣や荒耶の間違いは、自らの実力を計上しない戦略を立てたことです。
それが破綻するのは当然です。
人間は人間でしかない。まずそこに立脚する必要がある。


それは「蒼崎橙子の道」*7、すなわち、理想を拒否して道を下りることではありません。理想を捨てろ、高く持つな、というのではありません。


高い理想があって実力が足りないなら、足りない実力で理想に近づく現実的な方法を考えなければいけないのです。
極論するなら、荒耶や切嗣が求めたのは、空が飛びたいからといって、ビルから飛び降りた愚行であったのです*8。それは高い理想でも戦略でもない。


リー将軍にせよそうです。
「南軍が勝利すること」に目標を置く限り、順序戦略の罠から逃れる道はないかもしれませんが、「自らの力の及ぶ範囲で、最大限に世界を人々を幸せにすること」とするのであれば、理想的には、あやまちを認め、北軍と和解したり、それを目指した活動をしたりすることもできたはずなのです。
できたはず、といいつつ、実際には、それをリー将軍やロングストリートが独力で行うのは、「一人で世界を救う」のに似た無理さがあります。
南北戦争の当時に、そのようなことをするのは多大な労力がかかるでしょう。
だからこそ、時間をかけて、人々が政治や社会を理解し、自分たちの判断でそれを行えるようにする必要がある。


さて、ポール・サミュエルソンが言うように、「正しく理解されるかぎり、理論と観測、演繹と帰納の両者は相互に衝突するはずのものではない」のです。
理論と現実、演繹と帰納は衝突しません。
完璧な理論はないし、完全に報われる努力もないですが、しかし、帰納と演繹を続ける限り、「可能性的にマシな努力」は考えられる。
どれだけ混沌としていても、その混沌の中で、混沌を前提とした戦略を立てることはできます。
努力が裏腹な結果を起こす可能性を知りながら、なお「確率的にはマシなことになりそうな努力」を追求することはできます。
自分の出来る範囲で、自分の出来ることを模索しながら、自分が不完全であると知ることで、失敗した時にも絶望しないでいることができます。


要するに「完璧な戦略」は不可能ですが、だからといって、全部投げ出す必要はない。
できる範囲でやればいい。
自分の至らなさを知り、過ちを知り、足踏みや遠回りを覚えつつも、それを少しずつ改善してゆけばいい。


こういう時によくたとえに出されるカオス理論においては、入力と出力の間の数値解析に無限の精度が必要となります。
端的に言うと、カオス理論がそのまま成り立つ系の場合、「良い努力」と「悪い努力」の差が数学的に区別できない。
とはいえ、現実は、カオス理論なわけではなく、おおざっぱに結果を予想できることは多いわけですので、そこまで心配しなくていいでしょう。


完全に完璧に未来を予測することは不可能でも、そんなこと言ってる間に、できることはたくさんある。
そのできることを全力でやった人の絶望(あるいは荒耶や切嗣やリー将軍もそうだったのかもしれません)を否定することはありませんが、本当にそう言えるのは一握りの人間でしょう。


世界には考えて努力する余地が大量にあり、それは素晴らしいことです。

追記

鋼屋ジンさんからツイートでいかのような感想をいただきました。

話の本筋とはまるで関係ないけど、荒耶宗蓮に対する評価には賛同しかねる。「矛盾螺旋」は愚行に対する因果応報の話ではない。 http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20101210 約1時間前 webから

「FateZero」でキリツグを分かりやすい(過度な夢を抱いた者としての)「愚行」として描いたことに反発しているFateファンは多いと思うよ。 約1時間前 webから

基本的に愚行の悲哀を書くのが虚淵の旦那の作風。奈須きのこは全然違う(心のないシステムへの感情移入に近いかも…ちょっと違うんだけど) 約1時間前 webから

荒耶宗蓮の絶望を「戦わなくちゃ現実と」で済まされちゃあ、俺が泣くわ。 43分前 webから

空の境界」および「矛盾螺旋」を、プロットのあるレベルで読み込む場合、それは因果応報の物語として読み得ます。
橙子の視点からするなら、荒耶宗蓮は「荒耶宗蓮というものが幻想している人という形を救いたい」に過ぎない。
「起源」を利用する荒耶は、自らの「静止」の起源に囚われ、その荒耶を破ったのは、「無価値」の起源を持つ者として選ばれた臙条巴の「くだらない家族愛」と喝破される。


ここで橙子の視点からは、一貫したテーマとして、人を「起源」としてしか見られない荒耶がそれ故に、己に破れる様が描かれています。


空の境界」が、黒桐 幹也と両儀 式の物語とするなら、主要なテーマは、橙子視点で荒耶が断罪された通り、人が人を越えることではなく、人としてあり続けることなのです。
その意味では「戦わなくちゃ現実と」と要約できます。


……なのですが、「空の境界」は、そこで終わる話ではない。
荒耶は、このように、ことごとく、己の間違いを根底から知らされ、矛盾を消し去ろうとする自分こそが矛盾であったことを突きつけられ、敗北するわけですが。
だがしかし、そこで彼はあきらめない。
敗北を認めず、出直そうとする。真の叡智を求めて。
上記の文章で私は荒耶が切嗣と同じく「世界を救う具体像を持っていない」と書きましたが、荒耶は、殺すことになると「荒耶宗蓮は、明確に六十億もの人間の尊厳と一つ一つ戦う場面を想定」しています。
己の間違いを全て受け入れて、なお、その道を行こうとする一点において、確かに、荒耶は、橙子の視点に対抗する一個の価値観となるのです。


このことは、Fateにおける言峰綺礼にも言えます。自らの敗北を認め、うちのめされた衛宮切嗣とは違います。
ただし、このことが、奈須きのこ虚淵玄の作風の違いかはxenothは保留します。
Fate/stay nightの時点で、衛宮切嗣は自らの理想に殉ぜず、聖杯を失いながらも生き延びて衛宮士郎を育てた人物なので、Zeroが「愚行」として描写されることは一つの必然と思うからです*9


いずれにせよ、プロット上は「主役」に否定される「悪役」「ライバル」側の価値観。言峰、切嗣、荒耶から、士郎、アーチャーに至る、心ある故に心のないシステムを希求せずにおれず、それを求めた(あるいは屈した)側にも、奈須きのこが、等分の視線を注いでいるのが見て取れることは確かであり、鋼屋ジンさんのおっしゃる指摘はそこだと思います。
そのへんは書きそびれていたところであり、ご指摘に感謝します。
矛盾は解決も解消もされず「螺旋」する。とはいえ螺旋なので螺旋なりに前にも進んでいるのでしょうけれど。


作品読解の立場を越えて個人の感想の話になりますが、荒耶が絶望した時、人の死と苦痛を心にとどめようとするのは分かります。
ただし、彼が死を分類し、六十四卦から八卦四象に至ろうとしたのは、それは一つの堕落と思います。
死を知ろうとするのは、人の尊厳を理解しようとするのは、そういうことではない。


現実につなげる話をするのなら、荒耶ほどに行動し、その末に絶望するのであるならともかく、私やあなたが、安易に絶望を語っていいとは思わないということになります。

追記2

その後、鋼屋ジンさから以下のように返答をいただきました。ありがとうございます。

反応超早え! http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20101210

で、xenoth氏のレスだけど、はい、つまりそういうことなので、再反論はないです。

「我が愛しき子たちは浅ましくも懸命に生き延びようとし、その結果滅びた。その徒労を笑えるものか」と朱い月も言っている。

# TRPGネタだと、奈須きのこ作品は、なんかロイズとタイタス使うロールはしてるけど、実はこいつら全員ジャームじゃねえのって雰囲気はある。

同意いただけたようで幸いです。重ね重ね、ご指摘ありがとうございました。
奈須きのこ作品のキャラが「人間らしいふりをシミュレートしてる理念の化け物」的というのは、言い得て妙と思います。
たとえば上記の橙子も、口では人間らしいことを言いつつ、その存在としては荒耶より人外に近い。
また主人公達も、人間らしい温厚さを持ちつつ、時折、ふっと向こう側にいってしまいそうな雰囲気(狂気?)を覗かせたり覗かせなかったり。
そうしたあたりも魅力ですね。

*1:正確には「魔法使いの夜」のほうが古いようですが

*2:このへん、TRPGでは「ジャーム化」とか「修羅」とか「奈落落ち」とかを思いだすかもしれません。

*3:もちろん、これは読者の立場からによる超越的な視点であり、人としての荒耶宗蓮の悩みを含めた生き方を簡単に断罪できるものではありませんが

*4:経済・社会体制および資源および地理の不均衡から摩擦が生じ、それを正当化するために、奴隷解放を始めとするお題目が掲げられ、戦争を避けるのは難しかった、というのが一つの答えです。この答えを覆すのは簡単ではありませんが、それでも考えることは大切です。

*5:奴隷解放はもちろん大切なことですが、北軍奴隷解放を目指せたというのは、社会的経済的な背景によるものでもあります

*6:一人一人違う人間を、「救われる対象」という形で一律に捉えることは、個性の否定や洗脳、虐殺に繋がる概念とも言えます。

*7:実際のところ、作中の蒼崎橙子は、なんだかんだで、「一人ずつ救って世界を良くすること」を否定しているわけではないとxenothは解釈しています。荒耶からそう見えただけで。

*8:繰り返しますが、すべてを知った読者の立場から、そのように断罪するのは簡単すぎる話ではありますし、xenothがそうした間違いを犯さないというわけではありませんが

*9:もちろん、より細かいレベルで、どう描くかには、作家の個性が反映されるでしょうし、そこの解釈に違いが出ることは異存ありません。