ジレンマとTRPG

要約

ボードゲーム等は、ルールによる公平性が保障されている。
TRPGでは、ルール・システムだけでは公平性は保障されない。
GMの独断を権威として認めるのは、プレイヤーの信頼である。
解決不能なジレンマの提示は、信頼を裏切ることになるため、現状のTRPGでそのまま扱うのは難しく、工夫が要る。

研究と反応

『アナログ・ゲーム・スタディーズ』始まりました - God & Golem, Inc.で、アナログ・ゲームスタディーズの紹介が、グループに参加されていて、このブログでもおなじみの高橋志行さんが書かれています。
ゲーム論に求められるものは、知的に誠実な反応が帰ってくる豊かさとあり、深く同意するものです。
本記事および、AGSに関する一連の記事において、読む価値があるかどうかは読者の皆様が判断されることですが、知的な誠実さについてはこだわったつもりです*1
どうかこの記事および、一連の記事が、誠実な反応に積む石の一つとなりますように。

crow_henmiさんの視点

AGSの傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?: Analog Game Studiesにおけるコベントリー・ジレンマとTRPGの関係性について、crow_henmiさんが面白い記事を書かれました。
コヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地


AかBか、というジレンマをつきつけられた時、要素が限定されるボードゲームと違い、TRPGではプレイヤーが工夫し様々な方法で対処できるため、Cという選択肢を得ることができる。そこがTRPGの特性ではないか、というものです。


さてcrow_henmiさんのおっしゃるように、第三の選択肢を自分で作るのがTRPGの良さである、というのは全くその通りです。


この記事では、それに付け足す形で、なぜ、TRPGでは第三の選択肢が好まれるのか、を、違う視点から付け加えてゆきます。
そこにはTRPGの不完全性と可能性の両方があります。

TRPGの不完全性

シミュレーションゲームにおいても、TRPGにおいても、プレイヤーは行動を行い、その結果が世界に反映されます。


シミュレーションゲームの場合、プレイヤーの選択肢やその処理が、抽象化、ルール化されており、客観的な審判が可能です。
将棋で負けたり、形勢不利になった場合、まぁ恨むのは自分の腕だ、というわけです。


一方のTRPGの場合、プレイヤーは言葉で行動を宣言できるので、やれる行動の種類は大きい。その結果起きる世界への影響も多岐に渡ります。理想的には、PLのあらゆる行動に対する世界のあらゆる反応を、完璧にシミュレートし、公平に判定できればいいのですが、それは人間のキャパシティを越えます。
crow_henmiさんがいう「リソース増大や函数の出し入れが比較的容易なTRPG」の性質は、逆に言うと、「GMが全部の函数、リソースを完璧に把握するのが不可能である」ということに基づいているとも言えます。


よって、TRPGでは「ルールによる公平」は、必ずしも保障されていません。
ルールで規定されてない部分のGMの判定には、GMの主観が入るし、それを受け入れた上で遊ぶのがTRPGというゲームです。
では、GMの主観を、PLが世界の事実として受け止めるのはなぜでしょうか?

TRPGの可能性

それはGMとPLの間に、信頼があるからです。その信頼は、「協力して面白いゲームをする」ことに向けられているのです。


GMとPLの間に信頼がある時、TRPGは大きな力を発揮します。
プレイヤーのやりたいことを理解してGMはそれを受け入れ、GMのやりたいことと一緒にしてPLに返します。
この時、ボードゲームシミュレーションゲームと違った可能性が生まれます。


ただし、そのためには、PLもGMも「恣意性を、お互いを楽しませる方向に向ける」「嫌がる方向には向けない」という信頼が必要になります。

コヴェントリー・ジレンマとGMの信頼

コヴェントリー・ジレンマのようなジレンマを提示するのがTRPGに向かないのは、通常PLにとって、「どこを楽しんでいいのかわからない」からです。


ここには二つの問題があります。
まず一つ目。通常ゲーム内の課題は、PLの努力次第で解けることが前提になっており、それがGMとPLの信頼の元になっています。
GMは自由にシナリオを作れるので、「ゲーム始めた瞬間、強いモンスターが鬼のように現れてPCを虐殺する」シナリオも作れますが、それは信頼に反するからやってはいけないわけです。
「解けない課題」というのは、それと同じことです。


二つ目。TRPGは、第三の選択肢を常に発生させることができます。「コヴェントリーを救い、イギリスを救う選択肢C」を、(成功率はともあれ)プレイヤーは提案し、実行することができます。
GMがこれを「その選択肢はダメだ」と主張する時、それはルールの範囲ではないので、GMの主観です。
そして、その主観の使い方は「ゲームを面白くする方向」に向いていないわけで、やっぱりPLの信頼を裏切るわけです。


簡単に言うなら、将棋で「王手飛車角」となった時は、「あぁ俺の打ち筋が甘かった」と素直に思えます。お互いルール通りに打っており、条件が五分なのはわかっているわけですから。
一方TRPGで、「どっちも悲惨な選択肢のAとB、どちらかしか選んじゃいけないよ」と言われたら、「残酷で悲惨な世界」を思うより先に、「GM横暴!」となってしまうわけです。

コヴェントリー・ジレンマをTRPGで遊ぶ方法

上記を踏まえた上で、コヴェントリー・ジレンマを遊ぶ場合、二つの方法があります。
一つは、まず「今回のセッションは、選択肢が二つしかなく、どちらを選んでもひどい目にあう。その中で悩んでもらうゲームである」と、明言することです。
最初にGMの意図、ゲームの制限内容を伝えて、それに沿って遊んでもらうわけです。


「悲劇を悲劇として楽しみ」ことを意図するのであれば、そういうゲームもできます。
ただし、この場合、ある種、ギャグ的なノリになる可能性が高いです。
プレイヤーは、成功の可能性がないことを知悉してるわけで、そこでPCと乖離しているため、「右往左往するPCを上から見下ろす」視点となります。
達成不能なジレンマを、プレイヤーがPCに感情移入して、真剣に悩むセッションは、不可能ではないと思いますが、かなり難しいと思います。


もう一つは、プレイヤーの行動を制限しない方法です。
両方を救おうとすることを認める(ただし、他の選択肢より難易度は格段に上がる)上で、PLに選ばせるのなら、それはゲームとして成立します。
その場合でも、失敗率が高いものをゲームとするのは望ましくないので、それらはゲームの二次的な目標、通過点としておくべきでしょう。
「大魔王を倒す」
「その途中で、村を救うかどうか悩む(村を救っている間に、大魔王が大都市を襲うかもしれない)」
として、村を救った場合も、村を無視した場合も、最終的に大魔王を倒せるようにするのが望ましいです。

ジレンマに学ぶ

我々が歴史のジレンマに学ぶ時、「ジレンマのどっちがマシか?」という問いに終わっては、意味がありません。
ジレンマと出会った時の対処、心構え、そこに巻き込まれた人々に思いを巡らすことは重要です。
が、それと同時に「なぜ、このジレンマは起きてしまったのか」「繰り返さないためにはどうするか?」という視点も大切でしょう。
「この時、他に打つ手はなかったのか?」「この時無理なら、遡れば、いつの時点なら可能だったのか?」


そうした視点こそは、TRPGの特性にも大きく向いたゲームとなるでしょう。

*1:不誠実なところがありましたら、ご指摘いただけると幸いです。