ぶっちゃけ動けばいーじゃん主義

おおざっぱに決めて、動くもの作ろうぜ

ハッカーの用語で「Rough Consensus and running Code」というのがある。
みんなで、がちゃがちゃ集まって、なんか作ろうという時は。
こんなんやろうというコンセプトを、おおざっっぱに決めておいて(Rough consensus)、
あとは実際に動かしながら考えよう(running Code)
というものだ。


逆の話、全く物を作らないでいつまでも議論していてもしょうがない、という話でもある。
これがハッカーの標語になってるのは、作るものがソフトウェアのような、比較的、すぐ作って、すぐ試して、すぐいじれるものだからだ。
巨大建築物を着工するように、数十年と数百億円必要で、途中で変えられないものなら、「ざっぱに決めて、あとは動かしながらやろうぜ」とは、なかなかいかないだろう*1


TRPGやTRPG論が、「ソフトウェア」と「巨大建築物」のどちらに近いかといえば、前者だろう。
Consensusを厳密に取ることに夢中になって、running code……すなわちTRPGを遊ぶことがなおざりになっていないか。そこに気を付けるのも良いだろう。

科学におけるアプローチ

話は唐突に科学論に飛ぶ。
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080212/1202784619
id:ggincさんの日記で何度か書かれているが、TRPG論における議論においても、科学的な議論の進め方を参考にすることはできるだろう。


さてさて、物理科学というのも、実際のところ、「ぶっちゃけば動けばいーじゃん」主義的なところはある。根っこには実用性があるのだ。
例えば、現象Aを理論aで説明できる、としよう。
この時、理論aがどれくらい正しいかは、「科学的な物の見方」で判断される。
よく誤解されがちだが、「科学的な物の見方」というのは、単なる一個の哲学や原理ではない。どちらかといえば、ノウハウの集合体である。
長いこと科学とか物理とかを研究した結果得られた様々な経験知を含む、無数のチェック、評価軸を、飽きずに適用し続けてゆくことこそが、科学的な物の見方の一つだ。


核分裂特殊相対性理論で説明される、というのが、なぜ「科学的」か、というのは、反証可能性やらオッカムの剃刀やらから説明することができるし、それも大切だが、科学という膨大な知見の長い歴史から生まれたノウハウが、長きに渡って大勢によって適応され続けてきた、というのも同様に重要なことなのだ。


沢城さんの「中途半端な〈演繹〉と中途半端な〈帰納〉の両方をうまく使って」というのは卓見である。
逆に言うと、「どこまでいっても完全な演繹」や「どこまでいっても完全な帰納」などを行おうとすれば、科学は(いや、この世のあらゆるものは)一歩も立ちゆかない、という話でもある。


もちろん、そういう完全さの境界線を探索する学問は重要だが、一方で、running codeを求めることと背反はしない。
何かを作ろうとするなら、原理論は、ほどほどで切り上げて、手を動かしてみよう。
そこへたどり着かない論考は信用すべきではない*2

*1:コンピュータシミュレーションによる設計段階では、そうするかもしれないけれど

*2:ってことは、このxenothの日記も、だ(笑)