競争原理と協調行動

TRPGには、ゲームとして勝敗・目的を競う側面があり、ここでは競争の面白さが問われる。
TRPGには、皆で、設定を積み上げ、物語を作り出すという側面があり、ここに競争を持ち込むことは悪影響となる。
その両方が相乗するのがTRPGの面白さである。

競争原理

TRPGというものを知略を尽くして、目的を達成するゲームとして捉えた場合。
GMは敵であり、ルールは厳密である必要があります。ルール上OKかNGかは厳密に考える必要があり、裁定は一貫していることが望ましいです。

創造行為

一方で、よく言われる話ですが、TRPGは、皆で、面白い物語を作り上げるゲームでもあります。
「物語」というと、肩肘を張っているようですが、そんなたいそうなことじゃありません。


例えば道を歩いて花を愛でる。
D&Dの世界で、花を愛でること。スペルキャスターなら、マテリアルコンポーネントを探すかもしれないし、レンジャーなら植生からワイルダネスのモンスターについて考えるかもしれない。花に見えたモンスターかもしれない。
サイバーパンクの世界で、花を愛でること。そもそも「花」など存在せず、「花屋」は、超高級スノッブ向けの店かもしれない。庶民の恋人は、しおれない高級造花の花束を買うかもしれない。


単に道を歩いて花を愛でることの一つ一つが、「おはなし」を作り上げ、キャラクターや世界に奥行きを与えてゆくということです。
「おはなし」を作る時は、どんな小さなアイディアでも、全員で受け止めて、お互いにどんどん転がしてゆくことが、「おはなし」を展開させるコツです。
ブレストのコツと同じで、否定はしないこと。これが重要です。


まぁTRPGをある程度遊んだことのある人なら、そのへんは、体で分かっていると思います。

両者の共同

さてさて、TRPGは、この二つが、重なるから面白い。
創造行為で皆で作った「おはなし」は、やがて、ゲーム的な競争そのものとも関わってきます。
「おはなし」で「ゲーム」に対抗することが(システムそれぞれではありますが)可能なのです。


このへんを、口さがない人は「口プロレス」とか「ごねた者勝ち」と言います。
まぁこれは、一面の真実で、設定を通してゲームをするなら、自分に有利な設定を通そうというのも人情です。そして、「設定」に厳密なルールが適用されないなら、それによってルールの厳密さは損なわれる。


でもまぁ、創造と競争はTRPGの両輪です。その二つが絡まなければ、それはTRPGではないのです。そして絡む時点で、ゲーム的な競争原理の厳密さは、どうしても、ある程度犠牲になります。
逆に言うなら、「厳密さ」が一番重要なら、通常のゲーム……囲碁なり将棋なりを遊べばいいのです。
TRPGの良さを探すなら「創造と競技が相乗する面白さ」こそに着目すべきでしょう。

共同の実例

では、各デザイナーは、そのすり合わせについて、どう考えているか?


FEAR社のゲームの多くでは「演出後付け」という方針を打ち出しています。
これは、キャラクターの行動について創造行為でセンスを発揮して、自由に演出を考えてよいが、判定そのものには関係しない、という原則です。
判定は厳密に行うが、その描写については、創造的にやっていいというわけで、さきほど言った「厳密性が犠牲になる」問題に関する、スマートな解決法の一つです*1


天羅、ガンスリンガー、カオスフレアなど、「ロールプレイがパワーに変換される」系は、「皆がロールプレイで、おはなしを作り上げてゆくこと」を直接リソースとして定義する例です。「紗」や「フレア」の働きで、そうなるんだ、という世界設定からの補強もある一種の開き直りですね(笑)。
これらのデザインでは、合気やフレアを配る際、ゲーム的な厳密性は求められていません。ある程度、ノリと趣味、応援で配ってよい、ということがルール上明記されています。
なぜかといえば、これらは、プレイヤーの創造行為を支援するシステムであって、競争原理の導入は創造性を阻害するからです。
ゲームバランスの制御は、シーンごとに配られる合気の最大値や修羅化、手札限度などで、システム的にフォローされています。

結論

TRPGのルーリングを、競争/ゲームの観点「のみ」からしか分析しないのは、片手落ちです。
創造性、「おはなし」を作ることを、どう支援してるかも、分析する必要があります。


創造性支援システムを、競争/ゲームの観点から分析すれば、ちぐはぐなシステム論ができあがることでしょう。

*1:もちろん、「演出後付」のルールがあるゲームで、完全完璧に両者が分離する、というわけではありません。口プロレスを巡って喧嘩になりそうな時に、皆が納得できるような裁定基準、と、捉えたほうがいいかもしれません。

「狼は来た」「来たの?」

こちらのトラックバックは公開していただけてないようですが、石頭さんの記事に追記がありました。
http://stonehead.cocolog-nifty.com/ishi/2008/03/post_e191.html

「理解できねえのは、沸いてる奴の行動じゃいつもいつも、こっちがあるいは誰かが”TRPG|終わってる”っていうのと”そんなことはない!まだ全然OKだ”って必ずいうのよ。


その意見はおかしい、根拠がない。論理的にどうか。それしか言わない。必死すぎんのよ。見ている感じ。じゃぁ自分からはどうなんだ、って時、自分からは”こんなに終わってない”ってことの証明は言わない。

具体的な反論はないようですので、認めていただけたか反論がないかのどちらか、ということでよさそうですね。逆に言うと、石頭さんの記事が無根拠だ、という同意が取れるのであれば、「必死すぎる」というご批判については、受け入れます。俺はTRPGは好きですし、擁護に必死な側面はあります。


ま、それはそうと。
「狼は来た!」とか「家が火事だ!」と言われたら、「え、狼、どこ?」「火事? どれくらい? 煙は?」と聞き返すのは普通の話だと思います。


TRPGが危機的状況でない、とも、安泰だ、とも言いません。はっきりいうなら問題は山積みだし、昔も今も様々な危機があります。
だからといって。
「狼が来た!」と「遠くで狼の声がした」は、別の意見で、そこはまず押さえようという話です。
「そんな悠長なこと言ってると逃げ遅れるぞ」という話なのかもしれませんが。
無根拠に「TRPGの危機だ!」と叫ぶ場合、仮に本当に危機であったとしても、パニックになったり有効な手を打てなかったりするんじゃないかと。
「狼が来た!」と叫んで、狼のいる森へ逃げ出してもしょうがないわけです。


普通に考えればわかると思いますが「あなたの言っているここの部分はおかしい」と「TRPGは万事安泰」はイコールではありません。
TRPGに危機感を抱いているからといって、TRPGの危機ならなんでも無批判に受け入れなきゃいけないか、というと、そういうものではないでしょう。


念のために言っておくと「出版不況は大きいようだし、TRPG業界も大変なんじゃない?」というだけなら、「そうだねぇ。そうかもねぇ」というだけで終わる話です。

誰かが危機的状況だ、やばい、て時だけ突っ込みをいれる。でまぁ突っ込みを入れるだけ。ほかは何もしない。なんか、おいおい、お前そこまで大丈夫だってんならよ、自分の意見を言ってみろよな、他人の説にキーキー粘着するだけじゃなくてよ、とか正直思うわな」
「自分の説はねえんだろ。そいつは。要するに”危機的状況だ””終わっている”ってのを共通認識として捉えてほしくねえんだよ。だから粘着して反対して、それみたことか、こんなにも終わってないですよ、と火消しに躍起になる」

「どのように危機なの?」というのは「俺は安全だと思っている」というのとはイコールではありません。
もちろん、無根拠に「危機的状況だ」とか「終わってる」とかいうのを共通認識にされたら、傍迷惑なのは言うまでもありません。

安直な二元論と保留する勇気

「TRPGはここが危機だ」という命題に対して否定されたら「TRPGに危機があることを否定するつもりか!」と来る。「否定ばかりせずに自分の意見を言え」と言ってくる。
重要な問題を二択にして、事実や論旨の確認を政治にすり替えるのはよくある手ですが、やめましょうよ、そういう馬鹿馬鹿しいのは。


わからないことに関して、安直に結論を出したり、その結論に対して敵味方を定めたりするのは、何の役にも立ちません*1


事実が足りない時、結論を保留するというのは見識であり、勇気です。
自分の論旨の正しさだけを語るのではなくて、その不確実さと限界を前に出すのが、誠実さです。
賛成したい結論でも、事実や論理に間違いがあるものを認めないのが、公平さです。


意義のある知識、事実、論理を残そうというなら、どれも不可欠なものです。
逆に言うと、事実の議論をしている時に、政治を持ちだす人は、勇気と誠実さ、公平さが欠けているのです。

お言葉をいただきました。

「彼には是非ともこの言葉を送りたい」

この文脈の謙虚さってのは、「自分の業績を誇ったり自慢したりしない」という意味ですね。「主張にあたって事実確認に慎重になろう」という意味の謙虚さとは違うかと。


1.「俺は傲慢に言いたい放題言う」
2.「事実と違う? 他人に謙虚さを求めるな」
というのは、元の文章を書いた人の意図とは違うと思います。

追記が増えました

http://stonehead.cocolog-nifty.com/ishi/2008/03/mrx_b30a.html
当ブログを読み込んでいただいてるようで大変に感謝します。
個々の内容に関しては、こちらからすれば伝わってないと思える箇所もありますが(文章の未熟です。もうしわけない)、TRPGと出版不況問題の事実確認が解決していない状況で他の議論をすることも難しいと思いますので、判断については読者の方に保留します。


一点のみ、私は別に、厳密なデータを元に推論を下してない記事を全否定する、ということはありません。TRPGの広報とアカデミズムにおける研究を念頭に置かれるid:ggincさんについては、そうした立場から論を書く際には単なる個人ブログの感想以上の基準が必要ではないか、と、お話ししたことがありますが、これはアカデミックな研究をしない人には関係ない話です。


個人が趣味としてTRPGについて語る際、あやふやな箇所ができることは確かです。それは当たり前の話で、そういうのに文句をつけてゆくことは言論そのものを損なうことになるでしょう。ただし、これは難しい問題です。無知から発した一言が大勢を傷つけるものであった場合、それはどこまで正当化できるのでしょうか。あるいは単なる無知ではなく、意図的に誹謗中傷を行う場合は? 言論の自由は断固として存在しますが、一方で各人がその責任を踏まえなければ、それは権利の濫用となります。言論の自由を否定せずに、デマゴーグに対処するには、やはり言論が必要となります。


そうした基準はさておき、調子に乗りやすいxenothが、個人の楽しい話しまで潰しかねないことは確かで、それについてはご指摘を深く受け止めさせて今後の参考にさせていただきます。

*1:TRPGが危機かどうかはわからないが、楽観視して危機だったら困るから、切迫感を持って頑張ろうという行動方針には、何も含むところはありません。ここで批判しているのは、根拠のないデマを広げることです